CEO臼井泉仁
私の生まれは人口3,000人くらいの小さな町、岐阜県武儀郡武芸川町(現在の関市武芸川町)です。四男坊として生まれましたが、次男が生後8か月で肺炎に罹り他界。伯父2人も戦死しています。
だから「兄や伯父の分まで人生を全うしたい」という想いは当時から強くあり、祖母からの「命あることに感謝しなさい。人のために尽くしなさい」というメッセージを自然と受け取っていました。
父は優等生で、私から見ても清廉潔白な存在でした。戦時中もお国の役に立つために自ら志願して戦地にいったと聞いています。戦後に小さな町工場を立ち上げ、40人ほどの従業員と縫製業をしながら町議員や議長を何期も務め、賄賂は全て返金、議員報酬は町に寄付していました。
そんな父を支える母は毎日夜なべをして、ご飯を作りながら働いていた姿が印象に残っています。
「正しいことを正しいままに」という現在の信条は父や母、祖母の姿から自然と感じていました。
住み込みの社員さんが8人ほどと、地域の世話役のような父を慕って遊びに来る近所の方や業者の方が集まって、みんなで家族のような付き合いをしていました。
「楽しくなければ仕事じゃない」という大家族主義の考え方は、私自身が経営者となった今でも大切にしています。
コロナウイルスが流行する前は、大丸開発でも社員やメーカーさんとのイベントを行っていました。メーカーの方も現場で頑張る職人の方も、家を買っていただく方も全てがお客様です。そのまんなかにいる大丸開発が双方の橋渡しをする。両方のお客様にいかに喜んでいただくかを考えています。
好奇心旺盛だった学生のころ、海外に興味が出て、アルバイトをしながらお金を貯めてバックパッカーとして1,2か月かけてアメリカやヨーロッパを回りました。世界の大きさや楽しさ、自分の意見を話す大切さなど、日本では体験できないことがたくさんありました。
そこで間一髪、命の危機を感じた経験もあります。一つは、トラブルで乗れなかった飛行機が後に大きな墜落事故を起こしたこと。
もう一つは、悪天候で飛行機が飛ばずマイナス30度の中でど田舎の空港に一人放り出されたとき、ふと通った1台の車に街まで送ってもらい何とか過ごせたこと。命拾いをして生きているとありがたく思っています。
父が不動産に興味をもっていて、やってみないかと声をかけられて不動産業をスタートしました。その後は小さな事務的な仕事を請け負い、25歳のころに父とともにゴルフ場の開発を手掛けたことが初めての大仕事です。
時はバブル。妻は養護教諭でしたが結婚を機に一緒に仕事をすることになり、仕事の幅を広げることができました。土地の造成や売買で順調に事業を行っていく中で、子供にも恵まれました。
そんな中で、事件が起こったのです。
会社の成長に注力していた30代のころです。友人と仕事をした結果裏切られ、刑事事件に発展。人間不信に陥りました。心身ともに疲れきってしまい、仕事もできない状態が続きました。朝4時から岐阜の食品市場でアルバイトをし、自分だけでなく子供の保険も解約して何とか凌ぐ日々。
貯金はゼロ。私と妻の全財産は貯金箱に入っている2700円。本当にきついところを経験しました。
今でもはっきりと覚えています。日曜の朝市へ子供たちを連れて行ったときのことです。
私は生活に困窮して心が折れていましたが、子供は無邪気なもので「お父さんと出掛けられて嬉しい」とはしゃいで抱きついてきたんです。その瞬間「こんな親父ではだめだ」と目が覚めました。
下の子は2歳か3歳。「何やってんだ」という思いで、もう一回頑張ろうと決意しました。
そこから土地と家をセットで販売する建売住宅事業を始めました。
当時は返済期間が短く、非常に建物価格や金利は高い。アパートの家賃が月7~8万円だったのに対し、住宅ローンになると毎月の返済が15万円くらいでした。30代だととても高くて買えない。
そんな状況で、自分の家族のため、同年代の人たちの家族のために再度挑戦。「みんなが喜んで買える住宅を売ろう」と、”アパート家賃の7万円台で買える”をキャッチフレーズに商品を開発しました。
建物コストを下げるため、建築屋さんに丸投げしていた仕事を自社で一つひとつ分離発注することで叶えることができました。これは作れば売れる、大当たりでした。
これからも建売住宅事業を進めます。2021年7月からは注文住宅も始めました。
さらに宅建業の免許を県知事免許から大臣免許へ変更し、建売住宅を東京で進めるべく現在東京本社を作っています。渋谷区や目黒区などの土地と建物は中京圏では考えられない価格になりますが、土地が手に入りにくいエリアだからこそ分譲住宅を手掛けます。
東京に拠点を構える理由は、中京圏とは1年も違う情報格差です。
2021年埼玉県川越市にオープンした「小江戸温泉 KASHIBA」や東京での飲食事業の準備で3年間ほど東京に行き来する中で、マーケティングにしてもブランディングにしても、東京には情報があふれていることを体感しました。
東京に拠点を置くことでリアルタイムに情報を仕入れ、良いものを岐阜で実行したい。東京本社は不動産・飲食・アパレル、全ての事業の情報センターとして機能させる計画です。
2022年10月で40周年を迎えます。創業者として、中小企業として、がむしゃらにやってきました。
今後は「誰もが幸せになる、幸福感を得られる会社」を目指し、会社の社是でもある「売り手良し買い手良し世間良し、三方良し」の精神で社員とともに進めていきます。
そして一人ひとりが成長できる会社となるべく定期的に勉強時間を設け、専門家や講師を招いて専門スキルを上げる場、皆さんが成長して活躍できる環境を用意しています。
企業経営はこれから情報戦に入ります。情報を制して、社員とベクトルを合わせた理念経営を行う会社がこれからも伸びていける会社になると考えています。社員の皆さんをサポートするための情報センターを作って、社員の皆さんの幸せを実現できる会社にしていきたいと思います。